仏教には十界論(十界論を使うと説明しやすいので)というのがあって人間の魂の状態を地獄界
から仏界までの十段階に分けています。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、
仏、まあ字を見れば何となく状態が分かるでしょう。分からなければ検索すれば良い。
実際は一念三千といってもっと複雑になるのですが、俺はテクニックを教えているので単純に
いきます。神の領域の手前というのは菩薩界の事です。仏界というのが神の領域の事だ。
人間の意思の力で到達出来るのは菩薩界までです。
仏界というのは人間の意思の力では絶対に入っては行けない。
どうしたら神の領域に入って行けるのかというと、ある究極の矛盾を克服する必要がある。
人間には『思考』というものがある。
この思考によって魂に色々な事が書き込まれるわけだ。
生命の法則は善悪の区別がないので善い事も悪い事も魂に書き込まれ、それがいずれ
自分が体験する現実となる。思考によって魂に色々な情報が書き込まれ、
言ってみれば汚れて行くわけだ。
人間はこの世に何の為に生まれて来るのかといえば楽しむ為です。
楽しむ為に生まれて来るのに嘆き悲しむ人が多いわけだ。
「何で私だけこんな目に合うのか」と嘆く人に、
「その現実は貴方自身が生み出したものなんですよ」と教えても何の事やら
チンプンカンプンである。
でもそうやって苦しんでいる人の方が俺の話を受け入れやすいかもしれない。
ちょっとだけ深い事を言えば、嘆き悲しむ事ですら実はそういう楽しみなんだよ。
生きているからこそ悲しむ事も出来るんだよ。
生まれてから落ち込んだことも悲しんだことも無いこんな俺でも、数年前に実の母親が
死んだ時には少しだけ悲しいと感じた。その時は親とは偉大なものだと思った。
母親が生きている時は「俺を自分の子供だなんて思ってんじゃねえぞ、俺がこの世に出て
来るためにお前さんの腹を借りただけだ」なんて言ってたんだけどね。
でもね母親が行きたいという医者には全部連れて行った。悔いは無いよ。
くせ者はこの思考なんだよね。例えば俺は神の領域に入って行きたいと思った。
犬や猫がこんな事を思いますか。思考というものを持っている人間だからこそ
神の領域に入りたいと考えるわけだ。先ずはそう思う事が大事なわけです。
思う事が魂に刻まれいずれ自分が体験するわけだからね。
十界論で説明すると地獄界から菩薩界までは人間の思考によって到達できます。
九界は隣同士にありますが仏界だけは別物で菩薩界からは遥か彼方にあります。
思考によって悟りの境地を目指す事ができます。
しかしながら最終的にはその思考が邪魔して悟りの境地に入る事は夢のまた夢となる。
思考のおかげで悟りの境地を目指せるんだけどその思考が邪魔して神の領域に入れないんだよ。
これが究極の矛盾である。机上の空論では入れるわけもない。
生命の法則を完璧に理解したとしても入らなければ知らないのと同じである。
この世で最も単純で最も難しいもの、それが真理である。あまりに単純すぎて超難解なんだよ。
この世には聖人賢者が語った教えがあります。皆この究極の矛盾を克服した者が語った
言葉である。しかしながらその言葉を聞いた人々はこの究極の矛盾の壁に阻まれ逆に迷いに迷う
という事になる。究極の矛盾の存在にすら辿り着かない。単純なものは単純に理解するんだよ。
「何故そうなのか」と考えてはいけない。そう考えると迷いの中に入って行く。
在りのままに受け入れるんだよ。バカみたいにただ信じ切るんだよ。
神の領域には誰もが持っている『思考』を使って入って行くのです。
究極の矛盾の克服の仕方は思考の使い方にあります。
何らかの呪文を唱えるとかそういうものではありません。